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定期集会
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礼拝 (日)午前11:00〜12:00

礼拝とは、神様を神様として仰ぎ、私たちは造られたもの、生かされている存在であることを確信する時です。
ご一緒に賛美歌を歌い、聖書のお話をお聞きになりませんか。
なお、小さなお子様のクラスも同時間帯にあります。どうぞお気軽にお出でください。 - 学び会(日)月に1回 午後1:30頃〜
RBCミニストリーズの「生き生きと働く」というテキストを皆で読んでいます。
お茶を飲みながらの和やかな雰囲気です。 お気軽においで下さい。 - バイブルタイム(水)午前10:30〜11:30
〜賛美と聖書、祈りのひととき〜
共に賛美し、教理問答書を用いて聖書を詳しく学びます。 初めての方もわかりやすく神様のこと、聖書のことが学べます。聖書を学んだ後は2〜3人に分かれて、祈りの時を待ちます。 - 坂鶴朝祷会(月の第1土曜日)午前7:00〜
坂戸・鶴ヶ島・鳩山の教会に集まり地域の救いのために静かに祈る時を持っています。 場所は毎回変わりますので、参加ご希望の方は下記までお問い合わせ下さい。
北国哲夫 TEL&FAX. 049-284-4749 Email: sakado_baptist@y9.dion.ne.jp
行事予定
メッセージ
2012年5月13日
説教題:罪を赦す権威
聖書箇所:マルコ2:1-12
説教者:北国光伝道師
今日の箇所はとても有名です。屋根をはがしてまで熱心にイエス様のみもとに来た人々のおはなしです。
これを書いたのはマルコの福音書の著者マルコです。イエス様が天に昇られた後、使徒の働きで登場するマルコです。
マルコはイエス様に直接お会いしていません。誰からイエス様のお話を聞き、福音書を書いたのでしょう。彼は12弟子のひとりペテロから聞いたことをこの「マルコの福音書」にまとめたと言われています。マルコは伝道旅行をするペテロの通訳者の働きをしていました。
ペテロは旅をしながらマルコにイエス様について語ったのでしょう。特に、「マルコの福音書」の中で初めに記されているこの記事は初代教会の中でよく語り継がれ、何度も何度も読まれ、愛されてきた箇所だと言われています。マルコ2章1節の「カペナウムの家」はペテロの家であったかもしれないということです。
そうであるならばペテロは、「あの時イエス様はね」「イエス様がぼくの家に来て大勢の人にみことばを語っている時、突然天井から男の人がつりさげられてきたんだよ!ぼくの家の天井を破ってさ!!」「説教は中断させられた、でも、イエス様は優しくその人に、『子よ』と呼びかけたんだよ」そんな風にペテロは生き生きとマルコに語ったのかなと、想像します。イエス様につき従って間もない頃のペテロです。
その目に今日の箇所はどれほど強烈に印象に残ったでしょうか。そしてその話にマルコをはじめ、初代教会も夢中になって何度も何度もこの時のイエス様のみわざを語り告げたのではないかと思います。これまでこんな方に会ったことがない。
この場で起こった事はなんだったのでしょう。イエス様と言うお方、この人は一体誰なのか。中風の人のしたことはどんな意味をもつのでしょう。この話を通して著者マルコは私たちに何を伝えたいのでしょう。中風の人と私たちと、いったい何の関係があるのでしょう。
「子よ。あなたの罪は赦されました」と言ったイエス様は中風の人に、そして私たちに何をしてくださったのでしょうか。
1.中風の人、イエスのみもとへ(1-4節)
・中風の人と祖母
「中風の人」。彼は、たんかのようなものに寝かせたまま連れて来られました。からだに麻痺があるからです。
この、「脳内出血などの後遺症でからだに麻痺が残る」という「中風の人」は私の祖母の姿と重なります。
祖母は54歳で脳内出血で倒れて以来、右半身が麻痺の状態になりました。母が語ってくれる祖母の人生はまさに苦労続きで、そのベースにこの半身不随が常にあったのだと感じます。その心の中の葛藤ははかりしれません。また恥ずかしさがいつもあったのではないかと想像するのです。
何でわたしがこんな目に合わなければいけないのか。
また、一緒に出かけた時に、「痛い、痛い」と身体の痛みを訴えていたのをよく思い出すのです。麻痺してるところも痛いんだ。動かないのに痛みを感じるなんてなんて割に合わないなぁ、辛いなぁ、と、とても印象的でした。「中風の人」も祖母のようであったのかな、と思います。
身体を思うように動かすことができない。時間はたくさんあるので何でもできる自由があるはずなのにどこかへ行くにも人の力を借りる不自由さ。そして恥ずかしさと痛み。
・中風という病と私たちの心
自分の体なのに自分の思うようにならない。自由なのに不自由。しつこく残る痛みとまとわりつく恥。 この状態、まるで、わたしたちの心の中のようではないでしょうか。
思うようにならないそれは私が意としたことではないのに。心の思うままに動いても結局罪にしばられている不自由さ。
そして罪の結果である痛み、過去の恥。私たちは罪にどっぷりつかっているときは痛みも恥も感じないと思うのです。
そして中風の人も寝たままである時はあるいはその身体の麻痺を意識しないかもしれません。周囲の人もそれに気が付きません。
しかし、起き上がろうとするとき、強くそれと向き合わざるを得ません。痛みと、恥、不自由さに。
しかし、いつまでも寝たままではいられない。
中風の人を起き上がらせたのはだれでしょう。4人の人です。 家族か、友達なのか、通りがかりの人かわかりませんが、中風の人を見てあわれみの心が動かされたのだと思います。この人を放ってはおけない、なんとかしてあげたい。
2.イエスはその人々に信仰を見た。(5-9節)
・みことばを聞きに来た人たち
病気の人を癒すというイエス様がペテロの家にいらっしゃる。そのことが知れ渡ったと2章1節に書かれています。ガリラヤの町をめぐっておられたイエス様が私たちの町カペナウムに帰ってこられた。
1章を読むと分かるように、数日前にイエス様はこのカペナウムでみことばを人々に教え、悪霊を追い出し人々を癒しています。
家にはどっと人々が押し寄せてきました。この人たちは何か自分の病気を癒してほしくて、あるいは奇跡を見たくて来たのでしょうか。
2節にあるのは「イエスはみことばを話しておられた」ということばです。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」 神様の国はもう来ていますよ、わたしがそれですよ、喜びの知らせを聞きなさい。
人々はたいそう熱心に聞いていたでしょう。それを雰囲気もろとも、天井と共に壊したのが中風の人と彼をかついできた4人の人です。
・イエスの支配に飛び込んできた人
いくら人がいっぱいだとは言え、せめて話が終わるまで待てなかったのか、何も屋根を壊してまでイエス様のそばにおろす必要はないのでは、と思ってしまいます。しかしそんな彼らを見てイエス様はこう言われました。5節「子よ。あなたの罪は赦されました。」
彼らの信仰を見て、と書いてあります。その常識はずれな方法に、信仰を見たというのです。
不自由なからだをさらしてでもみもとに来ようとする姿にです。そして中風の人を助けてあげたい、なんとしてでもイエス様に会わせて癒していただいてほしい、後で、ではなく、今。
この姿に信仰を見たということでしょうか。家には熱心にみことばを聞く人たちであふれかえっていました。しかし、「時が満ちている、神様の国がきていますよ。」
この言葉にこたえるかのように、行動に移したのは、この、天井を壊してみもとに飛び込んできた人たちです。
まさに神様の支配の中に飛び込んできました。ただみことばを聞くだけでなく、イエスの言葉に、イエスの支配にとびこんだ。
信じていなければそんなことできません。それゆえ、イエス様は彼らの行動に信仰を見たのでした。
・信じて飛び込む信仰
聖書を読んでいると、神様は私たちが結果を見る前に神様を信じて一歩踏み出すことを私たちに期待しておられるということが多いと感じます。
アブラハムは行く先を知らされないまま「わたしの示す地へ行きなさい」という神様の命令に従いました。
エステルはユダヤ民族の危機の時に「死ななければならないのでしたら死にます」と自分に与えられた使命を全うすること決断しました。
イエス様の母マリヤは、思いがけない知らせ、神の御子を産むと告げられた時、その場から逃げださずみこころの通りになるようにと事実を受け止めました。
魚なんて絶対執れない状況であることはわかりきっているけれど、イエス様のお言葉の通りに網をおろしたペテロ・・・信仰によって大きな働きをした聖書の人物をいくらでも思い浮かべることができます。
しかし、よく読んでいくと彼らは小さな決断を積み重ね、神様に従っていったことも知るのです。偉大な信仰者も私たちと同じ人間でした。ただ、その時その時に神様を信じ、一歩踏み出したのです。小さな歩みが大きな実を結んだのです。それは神様の力です。
中風の人と彼を運んだ4人も同じです。このまま留まるか、引き返すか・・・ではなくて、ちょっとの壁を乗り越えて、この場合、壁ではなくて天井でしたが、イエス様に会ってみよう。その彼らの信仰をイエス様は本当に喜ばれたのではないでしょうか。
「子よ。あなたの罪は赦されました。」
3.イエスは罪を赦した(10-12節)
・罪を赦すということと身体の癒し
この「あなたの罪は赦されました。」という言葉を皆さんはどのように受け止められるでしょうか。なぜ、中風の人へ「立って歩きなさい」とか、またはただ手を置いて癒したりされなかったのでしょう。
また、6節にあるように、ここには律法学者がいました。
彼らはこれまではイエス様にそんなに反感を持っていなかったかもしれません。しかし、この「あなたの罪は赦されました」という言葉は聞き捨てならない、そう思ったのでしょう。心の中でつぶやきます。7節。
人は罪があるので神様との間に深い断絶があります。もともとは神様が喜び、最高の存在として人間をつくられましたが、人は罪を犯したので神様との関係が壊れて、神様に背を向ける者となりました。
自由気ままに生きているようなのに、不自由。周りを傷つけ、自分も傷つける。しつこく残る痛みと、まとわりつく恥。律法学者は聖書をよく研究しているので、罪の汚れの忌まわしさをわかりきっていました。
だからこそ、神様しか罪を赦すことなんてできない。彼らはこれまでイエス様の奇跡を目の当たりにしながらも、イエス様が神の子だということを、約束されたメシヤであることを信じません。
神の子だと信じないのでイエス様が「あなたの罪は赦されました。」という言葉も当然受け入れられない。自分の内に存在している罪の解決を、イエス様に求めないのです。
・中風の人と律法学者
9節。中風の人が癒されたならば誰の目にもイエス様が神の子であるということは明らかに証明されるでしょう。
しかしイエス様がこの地上に来られたのはそれが目的ではありません。病の人が癒されるのが一番の目的ではないのです。
もちろん病の人をイエス様は深く憐れみ、癒します。しかし、どんな人もやがては死ぬのです。病が癒されても必ず人は死にます。
ローマ5章12節「ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、」とある通りです。
イエス様は何からの救い主でしょうか。罪からの救い主です。イエス様は死の原因である罪を解決する為にこの世に来られたのです。
この中風の人の前でイエス様が何のために来られたか、イエス様がいったい誰なのかをはっきりとお示しになりました。10節。
すべての人は、罪があります。罪は神様から私たちを引き離し、そして永遠の滅びに突き落とします。
律法学者たちは誰よりも罪のことを知っていたはずなのに、イエス様に自分の罪の解決を求めようとせず、理屈を言いました。
しかし中風の人と4人の人たちはただまっすぐイエス様に向かって行きました。イエス様を信じ、そのご支配に飛び込んだのです。
中風の人はからだが動かず不自由な思いをしていました。病が癒されることを切望していたのだと思います。
しかし人にとってさらに必要なのは罪の赦しです。また、見た目には不自由がなくても心が空虚であれば生きていて何の意味があるでしょう。
健康でも、病を負っていても、富んでいても、貧しくても心が神様に向かっていなければ人は決して癒され、満たされることがないということを今日の箇所から学ぶのです。
祖母は去年召されました。病が癒されることはなかったが彼女にとって一番必要だった罪の赦しをイエス様にいただきました。
人生の中でたぶん辛いことの方が多かったであろう祖母は自分を強く持っていました。そして、かたくなにイエス様を信じることを拒み続けました。
それは一見今日読んだ中風の人の熱心さとは対照的なようです。しかし中風の人も4人の人に担がれ、イエス様のおられる家に行かなくてはイエス様のみもとに行くことはなかったのです。イエス様のところに行くのにどんなやりとりがあったかはわかりません。
「ぜひ連れてってくれ」と頼んだのか、「いいよいいよ行かないよ。僕はずっとこのままでいいよ、」と拒んだのを4人の人が半ば無理やりに連れて来たのか。どちらにしても確かなのは中風の人がイエス様のもとに行くことを最終的には受け入れたことです。
イエス様のみもとに行く。いきさつはどうであれ、中風の人はイエス様のみもとに行くことを望みました。恥も痛みもありのままにイエス様にさらして一歩踏み出した彼の信仰をイエス様は見て下さいました。そして「子よ」と声をかけ、そして一番彼にとって必要な言葉を言ってくださったのです。
「あなたの罪は赦されました。」
そして、11、12節。イエス様を信じその支配の中に飛び込んだ者がどういう人生を歩むのかが示されています。
今までとは全く違う人生、新しく変えられた生き方です。私たちも、この一週間、日々イエス様を信じて、小さな一歩を踏む、また時には飛び込んでみる歩みをしていきたいものです。ささいなことかもしれません。
人にやさしい言葉をかける、人をゆるす、間違いを正す、続けている悪習慣を断ち切る。それは何もしなければやりすごせる事柄かもしれません。
でも、床に伏せたままではイエス様に出会えなかったように、イエス様のことばを聞いてその支配に飛び込まなければなりません。
いつまでも寝ているわけにはいかないのです。天井を破りましょう。イエス様がその信仰を喜び、「子よ。」と呼びかけ働いて下さることを信じて。